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2010/09/08

江戸の町は世帯主の4割がフリーターだった。

定職のない拙者にとって、正社員はいい響きです。とはいえ王将とかは無理です。新入社員研修がスクールウォーズのごときスポコンさにびっくりしましたが、くら寿司もかなり神がかってます。

リンク)”くらの社員三誓”という長文を暗記し、35~40秒で言わせ、言えなければ”就職する意思が無いと判断”される。。それ以外にも色々と課題を課され、その過程で役員や人事の人間に罵倒される。また内定者同士でチームを組むよう指示を受け、いくつかの課題の後に「チーム内でいらない奴」を指名させられる。)

研修の手法は、王将の研修と同じ企業が請け負っているそうです。正直、そういう会社でやっていける人はえらいと思います。偉くない自分を慰めるべくネットの海をまわっていたら、こんな記事に出くわしました。

日本人は勤勉ではない

新しいものを疎んじる守旧派のみなさんに、残念なお知らせがあります。フリーターは江戸時代から存在した、由緒正しい生き方なのです。

 杉浦日向子さんの『一日江戸人』によれば、江戸時代、生粋の江戸っ子の中には定職に就かない人間がずいぶんいたということです。結婚して子供がいる男でさえ、食う物がなくなるとひょこっと町に出ていって薪割りなどをやって日銭を稼いでいました。まさに食うために必要なだけ働くという生き方ですね。

 そういってもまだ信じない人がいると困るので、この話の裏を取るために、別の資料も参照しましょう。江戸時代には人別帳といって、いまでいう住民票みたいなものが作られていました。南和男さんの『幕末江戸社会の研究』に、様々な例がわかりやすく解説されていますので、それを使います。

 慶應元年(1865年)、麹町12丁目。143人の戸主(世帯主)のうち、38人が日雇い仕事で暮らしていました。約26%です。同年、四谷伝馬町新一丁目では96人中13人で14%。こちらは住民に武士が多い土地柄なので、数字が低くなっています。慶應3年、宮益町では172人中69人で40%にものぼります。さすがに現代の日本で、世帯主の4割がフリーターという話は聞きません。江戸の世では、結婚してもフリーターでいるのがおかしくなかったのです。

まあ生活レベルが今とは違いますが、なんとかやっていたようです。

 当時、世界的にも非常に人口の多かった江戸という都市では、仕事を細分化することでワークシェアリングが実現されていたのです。そしてアルバイトが職業、生き方のひとつとして認められていました。現代のオランダが導入して成功し、オランダモデルと呼ばれるようになった雇用対策が、江戸の町ですでに行われていたのです。日本は雇用形態の先進国だったのです。日本人はこの歴史的事実を世界に誇るべきです。

 ついでに、大工や商人のような、長年の修行が必要な職業についても触れておきましょう。江戸時代の職業観、労働観は、現代とはかなり異なっていました。大工にしても、毎日真面目に働くということはあまりなかったらしく、みんな自分の懐具合に応じて仕事に行ったり休んだり、適当にやっていたのです。大工は雨の日は仕事にならないというのはいまも同じですが、江戸の大工はもっとわがままです。夏場は暑いといっちゃ休み、冬場も今日は寒いからやめたとか、悪くいえば怠け者ですが、良くいえば人間らしい生き方であります。こういう偉大な先祖を持つ日本人は、やはり素晴らしい民族です。

さすがにこれでは電車も遅れたりするのであれでしょうが、世の中なんとかなるんですね。

明治以降の日本人もそんなに勤勉というわけではないようです。(日本人の勤勉神話ができるまで

明治政府の農商務省(現在の通産省の前身)の調査報告『職工事情』(1903年)には、20世紀初頭の日本の労働事情が詳細に描かれている。年少の糸繰り女工の1日15ー18時間に及ぶ悲惨な強制労働の報告と共に、「貯蓄心がない」「給料日の翌日に休業する者が多い」「一生の仕事と考えるものが少ない」と、「勤勉」とはほど遠い職工たちの姿が報告されている。

 当時の職工の半数以上は勤続3年未満の未熟練者で、年にほぼ半数が退職した。基幹産業である三菱長崎造船所の月当り離職率は6%(1898年)、欠勤率も21%(1908年)に達した。欠勤率は冬の11月ー1月は低いが、暑い7・8月に高まる。月のうちでも、5日は賃金支払日で出勤するが、6ー9日は懐が暖かになったため怠惰になり遊興のため欠勤、9日以後は賃金を殆ど使い果たしたので真面目に働き、20日の賃金計算のための帳締め日には最良という「気まぐれな出勤態度」であった。(NIRA『産業労働における勤勉性の研究』1985年)。

 もっともこれは、工業労働者の比率がそもそも低く(1900年に雇用者の15%)、低学歴で、「職工は女こどものやること」という風潮の強かった時代のことである。日清・日露戦争から大正期に入ると、定着率・勤続年数が次第に高まり、欠勤率も低下する。学校教育と徴兵制による軍隊生活で、文字通りの「軍隊的規律」が浸透した結果である。

 いずれにせよ「日本人の勤勉性」の歴史的起源は、とても近代以前にまで遡るわけにはいかない。日本最大の官民シンクタンク総合研究開発機構(NIRA)の報告書がいうように、「明治、大正期においては、一部の基幹労働者を除き多くの産業労働者の勤務状況、あるいは働くことに対する意識は極めて低調で‥‥予め決められた労働に対し10ー20%の高い欠勤を示し、勤務状態は不安定」であった。また「自分の勤める会社に対する帰属意識も希薄で高い離職率と低い定着率」を示した。「勤勉性が本格的に形成、発揮されるに至ったのは第2次世界大戦後の1950ー55年以降」である(同前)。

 ただし注意すべきは、江戸時代の日本人の余暇の時間は、土着的信仰と結びついたイエ・ムラ単位の集団的祝祭・行事であり、個人の自由時間ではなかったことである。また、明治以降の近代化過程でも、自由や人権として休日・余暇の獲得が自覚されたわけではなく、職工の人格的承認や残業手当の平等な配分が労働者たちの要求であった。

他の人が残っていると早く帰れない。そうすることに罪悪感を感じるのもイエムラ的な感覚なんでしょうね。横並び意識は逆に無茶な努力をすれば無理なことでもなんとかなる的な、強烈な競争主義を生むのかもしれません。日本人は追い込まれると神風特攻とか考えてしまうわけですから、緩く行かないとこれからの世の中辛いかも。

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コメント

いろいろ読んでると、江戸時代に生きてみたくなりますよね。

杉浦日向子は、信じられないくらい若くして亡くなってしまいましたが、きっと現世から早々に隠居して江戸時代に行ってしまったんだと思っています。

「勤勉かどうか」のこの記事って、近代産業労働者の話で、当時まだ人工の大半以上を占めていた農業労働者は含まれていませんよね。その辺はどうなんでしょう。

baldhatterさん、どうもsun
江戸時代は面白そうですね。杉浦日向子は有名な方でしたか。知りませんでした。

農民の労働時間を調べてみたところ、10時間という話しもあるようですが、3~4時間という説もあるようです。

収穫期とか農繁期は相当な労働時間になるでしょうが、農閑期は文字通り暇なんじゃないでしょうか。


日本じゃないですが、農奴制のヨーロッパ社会では、農奴は「別にぃ俺の畑じゃねぇし~」的な感じでモチベーションが低くて無駄な仕事はしなかったようです。

> 10時間という話しもあるようですが、3~4時間という説もある

はい、私も似たような話を見たことがあって、それでこの話題を出しました。もちろん、けっして楽な生活だったわけではないのでしょうが、すぐに一揆と結び付けられる定番の描き方は、ちょっとマルキシズムのバイアスがかかりすぎているのではないか、という説もあります。

杉浦日向子はいいですよー。

baldhatterさん、どうもsun
>すぐに一揆と結び付けられる定番の描き方は、ちょっとマルキシズムのバイアスがかかりすぎているのではないか

それはあると思います。

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» 知っとる? [なにわのタカ]
ツレに教えてもらったんやけど、これめちゃっくちゃ儲かるな! まぁ俺の場合、本番なしでオナ二ーの手伝いとかクン二とかで 回数こなしてるからかもしれんけど(笑 [続きを読む]

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