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2011/09/08

西尾幹二は保守こそ脱原発と言っている…でもですよ

原発にはNOだけど、核兵器保有を支持するってのはどういうことなのか?

たぶんこの人がドイツ文学者というのが鍵ではないかと。

  私は福島第一原子力発電所事故が起こってから、原発賛成派から反対派に転じたと見る人がいるが、必ずしもそうではない。私が判断を替えたのは、保守言論人としての思想転向でもないし、反原発・反核運動に与するものでもない。ましてや菅首相の「脱原発」と意を同じくするものでもない。地震が多く、狭い国土では、もう原発をやめてほしいという一般国民の常識に基づくものである。エネルギー問題はイデオロギーで考えるのではなく、合理的にクールに考えよう、それが常識であると言っているだけだ。

 福島の事故以来日本の社会は「異相」に入った。東日本で放射能の不安を訴えた投書にある女性作家が、生存に不安は付きもので運命を逃げるようなあなたの弱さが問題だ、と答えているのを読んで、これは間違えていると思った。「異相」に入った社会で今までの一般的な人生論は通用しない。子を持つ親が放射能の心配をするのは当然である。私は3月にすでに福島の学童集団疎開を提言している。

 それを「勇気」だとか「精神力」とかで解決しようとする人たちがいる。ことに保守派に多いが、間違っている。原発事故は飛行機事故などとは明らかに異なるのだ。

 原発事故の土地でもいつか再び耕作や畜産ができるという説があるが、なにびとも他人の運命に変更を加えることは許されない。地震や津波だけなら諦められるが、人生を奪われ、故郷を失う人の悔しさを考えてみよ。同じような事故が国内の別の原発で重ねて起きたら、それこそ日本は崩壊する。人間が多数死んでもかまわない中国とは異なるのである

「保守」とは何か。「守る」とは何か。「守る」ということは生命の本来の欲求である。私は国を守ることも、文明を守ることも、家族を守ることも、自分の生活を守ることも、どれにも共通する「守る」ことに必要な条件があると考えている。それは、最悪の事態を想定して生きることである。

 そしてその上で平静に、晴朗に生きることである。それには真の勇気が要る。今日本人は奔然と自分を守る生命力をたぎらせている。

 福島第一原発の事故で、電源の位置や非常設備の改善について、公式文書や公式会議の場で警告がいくたびも出されたのに、責任ある関係者は馬耳東風と聞き流していた。そのときの台詞は報道されているが、例えば「そこまでのことは過去に起こっていないので考えなくていいのです」であるとか、「今の時点で定められた安全基準に合格していれば、それでいいのです」であるといった杓子定規であったことに国民は衝撃を受けた。

 日本の原発はどれもみな海辺にあり、海上からの高速船によるテロの襲撃にはまったく無防備で、海上保安庁の巡視艇も対応力がないことを、私は電力会社の関係者から聞いている。韓国の原発のゲートには機関銃座が設けられていることも知っておくべきだ。

 恐らくこれから地震と津波の対策にはある程度手が打たれるだろう。

 しかし新しい「想定外」の出来事が起こったら、責任ある関係者はまたしても口を揃えて「海上からのテロは過去に起こっていないので考えなくてもいいとされていました」とか、「テロは定められた安全基準に含まれていませんでしたから準備しなくてもそれはそれでよかったのです」などと平然と答えるだろう。

 そのような間の抜けた、心の腐った連中に私たちは原発の運転を今後も任せてよいのか、今の日本人はこのレベルなのだという厳然たる事実に絶望しつつ、強い不安と懐疑をここに表明せざるを得ない。

「保守」とは何か。「守る」とは何か。「守る」ということは生命の本来の欲求である。私は国を守ることも、文明を守ることも、家族を守ることも、自分の生活を守ることも、どれにも共通する「守る」ことに必要な条件があると考えている。それは、最悪の事態を想定して生きることである。

 そしてその上で平静に、晴朗に生きることである。それには真の勇気が要る。今日本人は奔然と自分を守る生命力をたぎらせている。

 福島第一原発の事故で、電源の位置や非常設備の改善について、公式文書や公式会議の場で警告がいくたびも出されたのに、責任ある関係者は馬耳東風と聞き流していた。そのときの台詞は報道されているが、例えば「そこまでのことは過去に起こっていないので考えなくていいのです」であるとか、「今の時点で定められた安全基準に合格していれば、それでいいのです」であるといった杓子定規であったことに国民は衝撃を受けた。

 日本の原発はどれもみな海辺にあり、海上からの高速船によるテロの襲撃にはまったく無防備で、海上保安庁の巡視艇も対応力がないことを、私は電力会社の関係者から聞いている。韓国の原発のゲートには機関銃座が設けられていることも知っておくべきだ。

 恐らくこれから地震と津波の対策にはある程度手が打たれるだろう。

 しかし新しい「想定外」の出来事が起こったら、責任ある関係者はまたしても口を揃えて「海上からのテロは過去に起こっていないので考えなくてもいいとされていました」とか、「テロは定められた安全基準に含まれていませんでしたから準備しなくてもそれはそれでよかったのです」などと平然と答えるだろう。

 そのような間の抜けた、心の腐った連中に私たちは原発の運転を今後も任せてよいのか、今の日本人はこのレベルなのだという厳然たる事実に絶望しつつ、強い不安と懐疑をここに表明せざるを得ない。

一方、私たちは今、近代社会の中で“進歩の逆転”という現象に直面していることも忘れてはならない。便利なものを追い求めた結果、不自由を強いられている新しい局面だ。貧しい時代に「学校」は解放の理念だったが、いつしか抑圧の代名詞となった。「脱学校」という解放からの解放の理念が求められる逆転が起こった。同じようなことが多数ある。原発も鉄腕アトムの夢の時代には解放の理念だったが、自己否定が生じた。

「あらゆる科学技術の進歩に起こった禍は、その技術のより一層の進歩でしか解決できない」というのが、これまでの技術革新における考え方であった。だが、原発はそういう類の技術ではないのではないか。どんな技術も実験を要する。そして実験には必ず失敗がある。失敗のない実験はない。しかし、1回の失敗が国家の運命にかかわるような技術はおおよそ技術とはいえない。事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ、リスクは無限大に等しい。それが原発なのである。

 人類が「プロメテウスの火」をもてあそんだように、原発はやってはいけない神の領域に手を突っ込み、その火の玉を制御できなくなってしまった。その結果、自分たちの頭上に落ちてきたのが今の日本の姿であり、進歩した科学技術の結果なのである。

「技術大国日本」を盲信する保守系の人たちは、この現実をどう考えるのかと私は問うている。保守系の言論人・知識人は日本の科学技術は世界一だという。福島第一原発の事故後でさえも、女川原発は壊れなかった、たまたま想定外の津波が起きただけだ、日本の技術を信じろという。私はこういう保守系人士を「愚かな甘い保守、日本万歳の保守」と呼んでいる。

 新幹線に事故のなかった国鉄を顧みて、日本の技術力をもってすれば原発にも事故なきを期待できると強弁する観念保守が今なお後を絶たないが、彼らはおよそ現実というものを正確に見ていない。

 国鉄には山之内秀一郎というような伝説的な逸材、事故事例を追い求めて、二度と同じ事故は許されないという強い信念と哲学を持つ技術者が中心にいた。彼がもし東電にいたら、反原発派の主張にも膝を屈し、進んで謙虚に耳を傾けただろう。

 ホンダでも、トヨタでも一流の企業文化にはそういう人間力、献身的な人格と技量と哲学を兼ね備えた技術者たちに培われた時期というものがあった。だが、残念ながら日本の原発は基本的にアメリカの模倣であり、加えられた日本の技術は改良技術にとどまっている。

 福島の事故は東電よりも経産省(通産省)の積年の技術革新への幻想に由来し、学者や政治家を巻き込んで肥大化した閉ざされた密室の進歩イデオロギーの帰結と私は考えているが、この点で政治と一体化し鉄道官僚が暴走した中国の新幹線事故とどこか共通する面がある。その冷徹な自責と敗北感をしっかり認識して思想を立て直すことこそ、保守系言論人のすべきことではないのか。目覚めよ保守派! 原発の幻想から脱せよ!

http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20110905-01/1.htm

核兵器を持ちたいけれど原発は要らない。ではそのプルトニウムはどこから入手するんでしょう?アメリカから?そんな国がありますか。北朝鮮だってイスラエルだって自前で原爆開発しています。何でも輸入できるわけではないです。

核保有を捨てずして原発は捨るというのは、ご都合主義というか現実的に不可能でしょう。個人的には原爆よりミサイル防衛網の方が効果があると思います。(どこまでも核兵器を製造可能なレベルまで技術を高めておくことはやぶさかではありません。)

中国の高速鉄道の事故は模倣したから失敗したというより、運行前の検証が少なかったことが問題でしょう。模倣が駄目というのはあまりにも短絡的です。真似できる貪欲さは持たねばならないでしょう。

イギリスで巡洋戦艦ドレッドノートが進水すると、その技術力の高さに驚いた日本海軍は金剛型戦艦をイギリスの設計で日本で建造しました(ただし金剛はイギリス製)。金剛型はそれなりの戦果を遺しています。その後の扶桑型は失敗。伊勢型で改良され、長門型、大和型と続きます。

中国高速鉄道の事故は寄せ集め技術という面もあるでしょうが、運行システムの問題もあります。

http://slashdot.jp/story/11/08/02/0143240/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%80%81%E5%AE%89%E5%85%A8%E9%81%8B%E8%A1%8C%E7%AE%A1%E7%90%86%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E3%81%AB%E6%AC%A0%E9%99%A5

追突された D3115 列車は「温州 3 接近」信号機が「赤」表示だったので、2 分間停止後時速 20 キロメートル以下で徐行走行できる目視運転モードで運転されていたが、後続の D301 列車が同じ信号機に差し掛かっていた時「青」表示になっていた。この本来赤になるはずの表示が青になっていた問題の原因は、日本経済新聞の記事によれば「列車運行管理センターにあるデータ収集装置のソフトウェア欠陥」だそうで、後続列車に先行列車はないという誤った情報が伝えられたため、D301 列車は通常走行のまま追突したようだ。

5月28日のJR北海道・石北線の特急脱線火災事故も乗客が死にかけたのはマニュアルの不手際が大きな要因です。

福島原発事故も想定が甘かった面と、事故に対して臨機応変な対応ができない体制に問題があります。東電からすべて奪って一元的に政府で強権的に対処した方が被害が少なかったかもしれません。

なぜ西尾幹二は反原発に舵を切ったのか?

あくまで想像ですが

①この人がドイツ文学者であるということ:ドイツは脱原発を宣言しました。この人は日本を、この人が考える「理想のドイツ」にしたいのかもしれません。私も数年アメリカに留学していたからかもしれませんが、やはりアメリカ寄りであることは否めません。

②トラウマになった:事故に遭うとそれに乗りたくないというのは当然の心情でしょう。非常にいい人だとは思います。

③無力感:震災後すぐだと思うのですが、防潮堤があるのに多くの犠牲者が出たことに対して、黒金ヒロシだと思うのですが、堤防なんか作っても無駄だから、高台に住宅地を移すべきだと言ってました。実際検証してみると、ちゃんと閉じられた防潮堤は津波のスピードを緩めたそうです。高台に住宅を建設する件ですが、台風が来ると土砂崩れが起こってしまう日本に果たしてそれは有効なのか。日本には巨大地震より台風の方が多く来ます。

偏るのは危ないです。


この本の第一章で中国語には時制がないという話が出てきます。しかし日本語も英語やドイツ語ほど時制が明確ではないのですが。ドイツ語には現在進行形が基本的にありません。ドイツ語は英語より劣るのでしょうか。

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コメント

意地の悪い論評ですね。ぼくは西尾の書いたものはけっこう読んでいる方だと自負しているのですが、ここでけなされている論説は、論旨と文章の双方において、西尾の名誉になるようなものではなく、むしろ彼の名を傷つけるようなレベルのものだと思います。しかしぼくには、西尾の主張がブログ主氏のいうように矛盾しているとは思えません。

ぼくなりに読み解くと、西尾が主張しているのは、原子力の軍事利用には賛成だが、平和利用には反対だということです。もちろんこれは大量殺戮を肯定しているというようなことではなく、原発の警備について述べられていることからうかがえるように、私企業の施設に軍隊を配備して警備することなど不可能だから、国(さらにいうなら軍)が原子力開発を行うべきだということです。軍による核開発となれば原発より原爆というのはむしろ当然で、核武装はOKだが原発はNOという西尾の主張が矛盾しているとは思えません。「想定外」を連発する姿勢への手厳しい批判から判断すると、ここでの西尾による議論の焦点は危機管理にあります。それを読み飛ばして「原発なき核武装は可能か」みたいな方向に議論を誘導するのは、はたしてフェアなことなのか、かなり疑問を覚えます。

それから西尾の転向の理由(ぼくはちっとも転向と感じていないのですが)として挙げられている「ドイツだ日本だアメリカだ」という推測ですが、これまたぜんぜん感心しません。ちょっと昔のことになるのですが、西尾は文春で出していた雑誌の論説で、「西洋対東洋という立論は誤りで、西洋にも西洋的なもの、つまり近代に反旗をひるがえした思想家たちがいた」という趣旨のことを書いています。シュペングラーや西尾が専門としているニーチェなどはその好例でしょう。ブログ主氏が引用した西尾の論説中で使われている「進歩の逆転」という表現から明らかなように、彼が用いる「保守」という語は「反近代」という意味を帯びていて、ドイツ文学者だからドイツびいきだというほど浅薄なものではないと思います。ドイツの脱原発宣言が西尾の主張になんの影響も与えていないとまで言い切るつもりはありませんが、おそらく彼はドイツなら何でもOKというようなミーハーではないでしょう。

ジャーナリスティックな文章であるがゆえに表現が激越で、舌足らずな部分も少なくありませんが、それでも西尾が「保守=反近代」に立脚しているのを読み取るのは、それほどの難事ではないと思います。「原発を肴に反近代を語っている」と言ったら西尾は怒るかもしれませんが、ぼくはこの論説をそういうものだと受け取っています。

東尾莞爾さんどうも
>西尾の名誉になるようなものではなく、むしろ彼の名を傷つけるようなレベルのものだと思います。

その通りです。他国の過度に蔑視する人間を自分は蔑視します。

反近代を目指しつつ核保有を狙っている国を知っています。

北朝鮮とイランです。

両国は原子炉を平和的利用の名の下にプルトニウム生産に利用しているようです。

それはともかく近代と反近代をどう定義するかによりますが、自由経済とか民主主義を近代を捉えるなら、反近代の筆頭はナチズムです。

当然、日本にもアメリカにも、ナチスに共感する人はいます。そういう意味では東洋VS西洋というのはおかしいかもしれません。反近代と捉えたほうが正確でしょう。

言いたいのは、日本をあなたの考える理想のドイツにされてはたまらないということです。光と影の両方を受け入れないと駄目ですが、この人の話は光だけを受けているように感じられます。

ヨーロッパを一元的に捉えてはいけないと思います。ロシアのロマノフ朝はずっと西洋化を指向しながら挫折してきました。ドイツも19世紀までは後進国だったと言えます。

しかし後進国から優れた思想家や科学者が出てくることはよくあります。ニーチェもそうでしょうし、フロイト、ニコラ・テスラもそうでしょう。19世紀後半から20世紀前半は中欧の時代といってもいいです。近代文明に新しい波を起こしたといっても過言ではないと思います。

>おそらく彼はドイツなら何でもOKというようなミーハーではないでしょう。

西尾氏の文献をよく読まれているそうですが、氏の主張で受け入れられない部分はありますか?

あと「ドイツならなんでOK」ではなく、「彼の考えるドイツ」なんだと思います。そこが逆に面倒です。アメリカの経済理論一辺倒の経済学者と同じです。ここは日本。

「西尾氏の文献をよく読まれているそうですが、氏の主張で受け入れられない部分はありますか」とのお尋ねをいただいたので、答えを書いておきます。
西尾に限らず、人の話を聞いたり人が書いたものを読んだりするときのぼくの姿勢は、現代文の入試問題に答えるときと同じです。つまり相手の主張をとらえることができればOKで、賛成だ反対だということは考えません。ぼくは何らかの価値判断にもとづいて正否や善悪を断ずるのがどうも苦手で、そういう難しい問題は敬遠することにしています。というより、何が正しくて何が誤りなのか、これがよくわからないのです。
したがって今回の西尾の論説も、「言葉づかいが激した、舌足らずな議論だな」という以上の感想はもちませんでした。そもそも西尾自身が論説の冒頭で、自分の「転向」と称されているものについて反論すると述べていますし、本論に入れば何のことはない、原発事故に激昂した老人の反原発談義が繰り広げられているだけです。つまりこれは私的な心情の吐露であって、公表すべき内容を備えているとはとうてい認められません。ブログ主氏はおそらく西尾の中国批判を指して「他国の過度に蔑視する人間を自分は蔑視します」と書いておいでなのでしょうが、この部分もぼくにとっては、「反原発談義にしては脱線しすぎではないか」と、論旨の乱れが気になっただけで、それ以上の、何らかの価値判断にもとづく反撥はまったく覚えませんでした。
ブログ主氏の反西尾論もそうで、ぼくが気になったのは、「激昂した西尾の筆づかいに撹乱されて、論旨が捉えられていないのではないか」ということだけでした。むしろ「原発事故に動転した老人の自己正当化」という、どこまでも私的なエッセーにくってかかる人がいたということの方が驚きです。まあ、西尾クラスの人士ともなれば、私的な激昂でさえも公的な意味をもつのかもしれませんが。

つぎに余計なことを書かせてもらいます。ブログ主氏の「光と影の両方を受け入れないと駄目」という文句ですが、これには痺れました。じつに勇気のある意見だと思います。
西尾は核武装には賛成だが原発は反対という立場ですよね。おそらくブログ主氏は「それは卑怯だ」と感じておいでなのでしょう。なるほど、西尾の意見は虫が良すぎるのかもしれません。原発事故への怒りにまかせてそういう「虫のいい」ことを書いてしまう西尾を指して、ブログ主氏は「非常にいい人」と評しているのでしょう。
しかし「光と影の両方を受け入れないと駄目」であるならば、西尾の「非常にいい人」である部分を認めたからには、「非常にいい人」ではない部分もまた認めなければならないのではないか。話をちょっと拡大しますが、たとえば人間はいわゆる道徳的な行為をすると同時に、ヒロシマやアウシュヴィッツのようなとんでもないことをしでかしたりもします。ぼくに言わせてもらうなら、「光と影の両方を受け入れないと駄目」という以上、人間を愛する、少なくとも受け入れるということは、ヒロシマやアウシュヴィッツも愛する、もしくは受け入れるということになります。
これはおそらく究極の真理だろうとぼくは思うのですが、もし公的な立場にある人がこういう発言をしたら、たちまち失脚し、二度と日の目を見ることはできないであろうことはほぼ確実です。さっき書いた「じつに勇気のある意見」というのはこのことで、こういう「公然と語るのがはばかられる、不都合な真実」のようなものを公言する人がもっと増えれば、この世の姿はよほど変わったものになるでしょう。そういう「新しい世界」がよいものなのか悪いものなのかはぼくには判断できませんが、少なくとも「そういう世界」を「そういうもの」として肯定するだけの勇気や責任感はもつようにしようと思います。

東尾莞爾さん、どうも
いい人ですが、「ナイーブ」というニュアンスです。核を持てば日本の発言力が増すみたいな話と同じです。発言力は増すでしょうが、単独でやれば経済封鎖されます。そこは完全無視。

>原発事故に動転した老人の自己正当化
まったくその通りです。それはこのブログのすべてです。それに反論しているのは、西尾氏のご都合的な話に納得できる人は多いと思ったからです。

>反原発談義にしては脱線しすぎではないか
危機的な状況にこそその人の本質が現れます。そもそも論理的な判断でも感情的な判断でも、社会にとって利益になればどちらでも構いませんが、西尾氏の議論は実現が極めて困難だろうと思います。さらに経産相が悪くて、軍ならいいみたいな話もおかしいです。問題の原因が本質ではなく、ある特定の集団の人間が悪いということで納得しています。
たぶん自衛隊が原子炉を同じところに持っていても事故は起こっていたと思います。

>「公然と語るのがはばかられる、不都合な真実」のようなものを公言する人がもっと増えれば、この世の姿はよほど変わったものになるでしょう。そういう「新しい世界」がよいものなのか悪いものなのかはぼくには判断できませんが、少なくとも「そういう世界」を「そういうもの」として肯定するだけの勇気や責任感はもつようにしようと思います。

がんばってください。

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