カテゴリー「書籍・雑誌」の39件の記事

2009/11/16

「秋山真之と日本海海戦」を買いました。

「坂の上の雲」を読み終えまして、いまいちよくわからない日本海海戦を理解するのにCGならいいかと思いまして買ってみました。

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2009/07/16

黙示録3174年

今まで読んだ本の中で“賞”をあげたい一冊は?

SF小説ならこの本

黙示録3174年です。

原題は「A Canticle for Leibowitz(リーボウィッツ賛歌)」

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2009/05/26

黒い手帖と動物農場

あまり元身内をいじめると大変な目に遭う(暴露される)のだと実感。

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2009/03/15

悼む人 読みました。

「悼む人」タイトルから想像するよりは、かなり残酷な話だと思います。正直面食らいました。

結論から言えば、人は他者から想われていたい。「悼む」とは亡き人が他の人々に愛されていたことを心に刻むこと。天国があるとすればそれは、生きているヒトの心の内側にあると。

音楽でいうなら HOMEを聞いた時の感じです。

本読みではないのであれですが、ストーリー構成が凄くいいです。

主人公ではない3人の主要人物が主人公的なストーリー展開をしています。映画で言えば「バベル」みたいな感じです。この3人が我々の代弁者であって、「悼む人」を触媒にして、それぞれ贖われます。このあたり、ドラマの「ヴォイス」の似ています。ドラマ全体の主人公が瑛太で、各話の主役が死んだ人。「悼む人」は瑛太に似たポジションです。あのドラマが面白ければ、お奨めします。

ただ「悼む人」の主人公、坂築静人(さかつき・しずと)はつねに客観的に扱われています。ある意味、彼は現代社会における境界人/マレビトのようです。神のようでありながら、どこまでも人間的です。客観的に書くことで静人が人ではない感じを与えつつ、3人と絡ませることで人間性を引き出しています。

あと面白いなと思ったのは、静人は死者を悼むとき、誰が殺したとか、原因を追究しないという、現代の報道とはまったく違うスタンスを取っています。原因を追究すれば、死者への想いがかすんでしまうそうです。

そういえばマザー・テレサは平和運動の集会に参加しましたが、反戦運動の集会には参加しなかったとか。それは反戦運動は戦争を憎むがゆえに、戦争を志向するからそうです。

殺されたことを憎むのではなく、死んだ人が人々に愛されていたことを心に刻む。これはとくに新しいことではなく、昔からある情動のように思います。法事とかで、亡くなった人の話をしますが、あの感じが悼むというのに近いでしょう。

静人が話を聞けば、何かしら死者のことを覚えてる人がいます。

静人(悼む人)が行っている悼みは、本来死者に対してそうありたいとヒトが願う姿勢を具現化してるように思います。

死んだとき、あなたは悼んでくれますか?

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2009/03/03

麻生さん、11冊目にお奨めです:金枝篇

支持率ヘロヘロの麻生総理は、金枝篇の「王殺し」は読んでおくといいかも。

読売新聞】麻生首相は1日、JR東京駅近くの大型書店を訪れ、「マキアヴェッリ語録」(塩野七生著)や「危機を超えて すべてがわかる『世界大不況』講義」(伊藤元重著)、「読まない力」(養老孟司著)など10冊をまとめ買いした。(中略)ただ、1日に買った本のうち、日下公人氏らの共著「強い日本への発想」は、昨年11月30日にも購入したものだった。

王殺し」とは、“古代においては宗教的意味をもって王を殺害する習慣があったとする説がある。これは、王が本来人間の身でありながら、宇宙の秩序を司る存在として君臨していたことに由来し、そのための能力を失った王は殺害して新たな王を擁立して秩序を回復させる”ために行われるのです。

アメリカでのブッシュからオバマへの流れとか、自民党内での首相挿げ替えに納得できないという感覚の一端としてこういう深層思考があるのではないかと思います。

簡単という書評がありましたが、難解です。写真がなければ途中で投げだしてました。

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2009/02/03

港町食堂 N木賞を獲った作家の

ほぼ唯一、最後まで読める作家が奥田英朗。その人の旅の本。

ヘタレな感じが好きです。笑えます。一応食べる本ですよ:

 すぐにボロが出るだろうから、最初に告白しておきます。わたしゃ批評ができるほどのグルメじゃありませぬ。目隠しされたら養殖と天然のちがいもわからないだろう。ワインの銘柄などまず当てられないだろう
 ええと、もう少し正直に書きましょうか。はっきり言って味覚オンチです。緑色のぺーストを「これはアボカドだね」と気取って口に運んでいたら、実は空豆でご婦人にケラケラと笑われたことがあります。

アワビとイカを間違えた拙者は共感できます。こういう人は信用できます。

韓国での垢すり話:

サウナのあとは浴室へ。ここには手術台のようなべッドが並んでいて、どうやらここで垢すりがなされるらしい。体格のいい薔薇族風のお兄さんたちに出迎えられる。
タオル、腰に巻いていい?  と聞いをら、「スッポンポン、スッポンポン」と言われた。
どこで覚えたんですかね、そんな日本語。
浴槽に浸かって汗を流したのち、全裸でべッドに横たわる。あいや、丸腰とはこのこと。
またしても不安がこみ上げる。変なとこ、触らないでくださいね。
お兄さんは、垢すり用のグラブを手にはめると、死体でも洗うように荒々しく垢すりを始めた。日本の男子三名、なされるがまま。
垢すりは思ったより痛くなかった。ただし気持ちよくもない。正直に書こう。なんだか人間の尊厳を損なわれたようで、ひたすら居心地が悪いのである。全裸というのは、情けない姿なのだ。
「はい、横向いて。手を上に」そう言われて、寝返りを打つ。すぐ目の前にタロウ君が、こちらを向いて同じバンザイ・ポーズをしていた。ムスコ、だらり。お互い思わず笑ってしまう。
「奥田さんと全裸で向き合うなんて、そうないことですね」
二度とあってたまるか。東京で言いふらしたら承知しねえぞ。

参鶏湯は最後に自分で塩とかコショウ入れて味を調えるんだとか。そうか普通に食べて味が薄いなあと思ってました。

朱鷺(トキ)を見た感想:

コースを進むと:柵の十メ―トルほど向こうに濫があり、数羽のトキが羽を休めていた。
ああ、あれがトキね。とくに感想も湧かない。遠目には鶴か二ワトリなのだ。「なんや、しょうもない」こんな遠慮のない声もあちこちから聞こえてきた。うーむ、正直なところ、十人申九人は落胆する観光名所である。でもって、トキっていなくなると何か不都合でもあるわけ?  なんてことも言いたくなる。税金を投入しているわけだし。
野生動物の保護というのは、ある時点から、学者や役人の既得権になるんでしょうね。
天下りもいそうだなあ。
ともあれ、一生濫の中に閉じ込めておいて保護もないものである。自由に絶滅させてやれよ。これがわたしの意見である。問題発言でしょうか。

正しいでしょう。そういう人だけじゃないでしょうけどね。

冬の宗谷岬:

宗谷岬から眺めるオホーツクの海は、人の立ち入りを拒むかのように、静かに荒れていた。水平線がわからないほど、灰色の空と一体化している。その姿に、わたしは毅然としたものを感じた。海が好き、などと無邪気なことを言うマリンレジャー系の人々をここに突き落としてみたい。海は海で勝手にやっているのだ。

ここで終わると、船越英治郎の2時間ドラマですが、もっと違うまともな展開で終わります。

こういうのをブログでも書けると良いなと思う次第であります。

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2009/01/19

オバマの演説スタイルが特集に

クーリエを購読していますが(いつもパラパラっと見る程度)、最近オマケがつくようになりまして今回はバラク・オバマの勝利宣言演説でした。DVDになってます。

これ英語字幕だけで、日本語字幕が入ってません。

日本語訳は雑誌に載っています。偉い人の解説がついてるので面白いです。読んでみると文法も単語もそんなに難しくないです。なのに心揺さぶるものがあります。

ジュリアス・シーザーの「来た、見た、勝った(Veni,Vidi,Vici、カタカナで書くと、ウェーニー、ウィーディー、ウィーキー)」とヒップホップ並みの語呂合わせです。

できる人は何かが違う。

勝った、述べた、全米が沸いた。

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2008/10/03

天才の栄光と挫折

蟹工船がプロレタリアートの悲哀であるなら(読んでませんが)、こちらは天才数学者の悲哀です。映画のようです。個人的に凹む出来事がありまして、これを読んで復活できました。

あとがきが内容の要約になっているので引用します

これら天才を追う中でもっとも胸打たれたのは、天才の峰が高ければ高いほど、谷底も深いということだった。栄光が輝かしくあればあるほど、底知れぬ孤独や挫折や失意にみまわれている、ということである。
人間は誰も、栄光や挫折、成功や失敗、得意や失意、優越感や劣等感、につきまとわれる。そしてそれは自らの才能のなさのため、と思いがちである。否。天才こそがこのような両極を痛々しいほどに体験する人々である。凡人の数十倍もの振幅の荒波に翻弄され、苦悩し、苦悶している。
天才がこのようなものと知ってから、天才は私にとって神ではなくなった。自ら進んで創造の苦しみを肉体にそして骨にくいこむほどに背負って歩いた人。たまたま運良く、あるいは運悪く選ばれたため、この世にいて天国と地獄を見た人といってもよい。

壮絶だなと。皆さんあまり長生きしてません。

ブレードランナーの人生はロウソクだっていうのを思い出します。

2倍激しく輝けばそれだけ早く燃え尽きる。

数学者は芸術家なんですね。

ニュートンや日本の関孝和を始め、アラン・チューリングも紹介されてますが、面白いのはラマヌジャンの話。

ラマヌジャンは「我々の百倍も頭がよい」という天才ではない。「なぜそんな公式を思い付いたのか見当がつかない」という天才なのである。アインシュタインの特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくとも、二年以内に誰かが発見しただろうと言われる。数学や自然科学における発見のほとんビすべてには、ある種の論理的必然、歴史的必然がある。
だから「十年か二十年もすれば誰かが発見する」のである。
ラマヌジャンの公式を見て私が感ずるのは、まず文句なしの感嘆であり、しばらくし
てからの苛立ちである。なぜそのような真理に想到したかが理解できないと、その真理自体を理解した気に少なくとも私はなれないのである。それは誰かが、我が家の柿の木の根元に金塊が埋まっていると予言し、それが事実だった時の気分である。事実は認めても、予言の必然性や脈絡をたどれぬ限り苛立つ。
数学では、大ていの場合、少し考えれば必然性も分かる。ところがラマヌジャンの公式群に限ると、その大半において必然性が見えない。ということはとりもなおさず、ラマヌジャンがいなかったら、それらは百年近くたった今日でも発見されていない、ということである。

数学さっぱりわかりませんが、こう書かれると数学の巨人だということがわかります。

マヌジャンは自分で論文が書けないのでハーディーという数学者が書いていたそうです。映画アマデウスの最後で、モーツワルトがレクイエムを口ずさみ、それをサリエリが楽譜に書いていくシーンみたいです。

最後のフェルマーの定理を証明したアンドリュー・ワイズは良い話で終わってました。

最後の感想:

なせばなる なさねばならぬ 何事も なさぬなら 人のなさぬなりけり。

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2008/08/21

ヴィランド・サガのビョルンが!

これまでのヴィンランド・サガ(ERとか洋ドラ系で読んでみましょう)

サガと言っても佐賀ではございません。いわゆる「サーガ」です。長いお話なんです。主役が3人、トルフィン、クヌート、アシェラッド。アシェラッドなしにこの話は考えられません。

9月号でビョルンがアシェラッドと決闘して死んだんですよ!

ヴァイキングのキノコ食べてベルゼルガになっちゃう漢のビョルンが、アシェラッドに「あんたと友だちになりたかったんだ!」って言っちゃう。久々に聞きましたこんな台詞。「(ヴァルハラに)送ってくれ」って言うのもググっときます(戦って死なないとヴァルハラには行けないそうな)。

来月号はアシェラッドとトルフィンの対決です。

これと「ぷ~ネコ」がアフタヌーンからなくなったら極めて残念です。

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2008/08/19

押井守:「凡人として生きるということ」

これは押井守版「バカの壁」なのです(たぶん)。

対象はオタクな若者。北島康介とかではないです。

「若さに価値などない」と言い放ち、「車が趣味です」という親父は所詮ローンを払ってるだけで、妻に隠れてプラモ作ってる親父の方が趣味として充実していると喝破しています。映画監督なのに映画より面白いんですよ(ストレートだからかも)。

若者よ結婚しなさい論:

確かに、子犬を連れて帰らなかったことで、あなたの暮らしは昨日までの暮らしと何ら変わらない、穏やかなものになったかもしれない。だが、子犬を連れて帰っていれば、もっと楽しい、豊かな生活があったかもしれない。それこそ、旅行なんか行きたくもなくなるような、毎日の散歩が苦行ではなくて、楽しくて仕方ないような、そんな暮らしがそこにあったかもしれないのだ。
あなたは何も捨てていないようで、実は大きなものを捨てている。少なくとも、何も選択しないうちは、何も始まらない。何も始めないうちは、何も始まらないのだ。
   子犬は単なるたとえ話であって、これは人生のあらゆる局面に言える真実だ。もっといい女の子が現われるかもしれないと、いつまでも彼女を作らないようでは、いつまでも彼女は作れないし、いつまでも結婚できない。いつまでも結婚しなければ、いつまでも子供が生まれない。
  もっといい家が見つかるかもしれないと、いつまでも家を買わなければ、いつまでも家を買えない。

なかなか面白いです。この後、さらに子犬の話が続きます。押井守は多感だなと思いました。

さらに面白いのは:文明がロリコンを生んだという話から

「文明化は親を虐待へ誘惑する」という展開に:

・・・このように、文明化はすべてにおいてすぼらしいことばかりではない。文明化は、生物としての退化を人類に強いることになる。ロリコン男が幼い子を手にかけるのは、そうした文明化の表れとも言える。自分の遺伝子を搭載している子を守ろうとするはずの親が、我が子を殺してしまうなどという悲劇は、本来は起こりえないことであり、それはもはや親としての本能がまともに機能していないということを意味している。
   これまで検証してきたように、文明化という働きは、性欲という最も根源的な本能さえ無力化してしまう。性が商品化されたことで性欲が文明化された。ひょっとしたら育児マニュアルのような子育ての文明化が、母親たちの本能を狂わせているのかもしれない。子供の成長が思わしくないからと言って、子供を殺してしまうという矛盾した事件も起きているが、それも、子育ての文明化という文脈で読み解くと、意外に当然の帰結のような気もする。
  とにかく、本来ならぼ本能に任せておくべき分野にまで文明化の波は及んでいる。高度に文明化した現代社会では、あらゆることが商品化され、消費されている。郊外のパチンコ店には広大な駐車場が完備され、道路が整備されてアクセスが便利になり、小さな子供を育てる母親でも簡単に行くことができるようになった。
   そこまで便利になれば、当然のように欲望にかられて子供連れでパチンコに行く母親が出現する。そして、車で寝ている子供を置き去りにして、パチンコに興じることになる。そうやって、熱射病で何人の子供が命を落としたことだろうか。
   そんな罪を犯した母親に「それが母親のすることが」といくら糾弾したところで、意味のないことだ。かつて、身近にパチンコ店などない時代は、赤ん坊をかかえて、汽車に乗って、パチンコ店のある都会まで出かけて遊ぽうという母親などいなかったはずだ。どんどん社会を便利にして、母親たちを誘惑しておいて、「子供を置いてパチンコするとはけしからん」と糾弾するのはご都合主義に過ぎる。(98-99)

かなり極論ですが、そういう側面もなくはないと思います。読書感想文には使えなそうです。

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